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スキルス胃がんと闘った兄のこと:闘病記vol.2

prayいろいろ

東京から帰っても毎日気の晴れる日はなく、まんじりとも出来ない夜もありました。

でも、私が考え込んでも仕方ないのです。治療と兄の生命力次第です。

スキルス胃がんのことや、その患者さんのブログを検索しては読み漁るようになりました。

何の助けにもならないですが。そのうち、身体に良く食べやすそうなフードを見つけては、

送ったりしていました。

11月に化学療法の効果を調べる検査をしたと連絡がありました。

CT検査では腹水がなくなり、腹膜播種の

影も消えたこと。


胃を変形させていたがんの厚みも硬さも減り

真ん中の狭窄も無くなり、胃壁が薄く柔らか


くなり始めていて、主治医もこの結果に

満足 していたそうです。

幸いシスプラチンが効いたのでしょう。 軽いしゃっくりがよく出るくらいで きつい副作用も

なく過ごせていたようでした。

(残念だったのは分子標的治療の対象には当てはまらなかったことでした。)

引き続きシスプラチンの投与を継続するので、4日間の入院が決まったとのことです。

それに合わせて私も兄に会いに上京することにしました。仕事にも復帰できたため、入院中で

なければゆっくり顔も合わせられません。あと何回会えるでしょうか。

今回面会に行く前の日まで、兄はまた何度もメールをくれました。日にちと時間や飛行機の確認、

当日も点滴時間が変更になったとか、病院の都合でその日は病棟が変わるとか・・・。

会いに行くことを楽しみにしてくれていると思いました。きっとお互い少しでも顔をみて

話したいという気持ちがあったはずです。

11月以降兄からは特に連絡はなく、多少のことはあっても無事でいるだろうと思っていました。

気候も暖かくなりお見舞いに行こうかと思い、都合を聞くため連絡すると、
1月に帯状疱疹に

かかり、4月は腎臓に炎症を起こし発熱、数日入院していたと経過報告がありました。


いいことは連絡してくれても、そういう心配のタネになるようなことは言ってこなかったんだと

逆に心配になりました。免疫力は落ちているのでしょう。けれども慌てて上京したりしないから、

できるだけ何でも知らせてほしいと返事をしましたが、どうでしょうか。

兄の心の中では、不安とまだ大丈夫という気持ちで揺れていたと思います。

6月に抗がん剤投与と検査で入院すると聞き、会いに行くことにしました。

今回も何時に入院するとか、時間外面会の許可を取っておいたとかいろいろメールをくれました。

どっちが心配をかけているか、わからない感じです。

今回はすぐ抗がん剤の副作用が出てしゃっくりが止まらず、少し苦しそうに見えました。


けれども、髪が抜けることもなく重い副作用もまだ見られないことに二人で

「手術をしていたらもっと体力が落ちて、術後抗がん剤の副作用がきつかったかもしれないね。」

「胃がまだあるから少しずつでも食べられるし仕事も行けてるしな。脱毛もしてないし。」

「好きなものは食べられるの?食べたらいけないものはないの?」

「見た目の量がたまにプレッシャーになることもあるけど、食べられるよ。」

「食べたほうが体力もつくだろうし、胃があって良かったね。」とまたこんなたわいない話を

しました。その日は退院日でもあり、病院を出てからはカフェでもう少し話しました。


「家に連れて行って話したいけど、パートナーが家に仕事を持ち帰ってて、忙しそうだから、

連れていけないんだよ。ごめん、せっかく来たのに」

「いいよ、お兄ちゃんが気をつかわなくても。仕事なら仕方ないから。それより、私に気を

つかわないでいいから、もう早めに家に帰って」そう言いましたが、「まだ大丈夫だから」と

言うのです。でもしゃっくりがついて収まらず苦しそうに見えます。

「早く帰って家で横になって。東京初めてじゃないんだし、ゆっくり買い物でもするから。」

そう言ってさよならしました。

特にもてなしなどいりません。片付いてなくてもかまわない、仕事中以外の部屋で話せれば

いいのにと少しうらめしく、また済まなさそうに言う兄がかわいそうでした。


気をつかわせるなら今回は来るんじゃなかったかも・・・そんな気持ちで翌日帰りました。

8月23日、また突然メールがきました。9月7日から2泊3日で香川に来るということです!

あれから1年、途中帯状疱疹や発熱とかありましたがこちらに旅行に来られるくらい今の体調は

まずまずのようです。

でもきっと、
何かある前にもう1度生まれ故郷を見ておきたいという覚悟もあったと思います。

7日はまず隣県にある、空き家になったまま5年間売れない実家を見てから香川入り。

8日は生まれてから子供のころ育ったところや思い出の詰まった場所を回り、卒業した高校の

文化祭を見て、私の息子の高校の文化祭にもいったそうです。なぜこの時期に帰ってきたかと

いうと、ちょうど文化祭の時なのをHPで発見し、高校に出入りできるからと言いました。

(というか、どうせ帰るならそういう時がいいと調べていたんですね、きっと)

そう聞くとますます、そうか、見納めの

つもりなんだと思わずにいられません。

あいにく雨模様で不便だし気温も低く、


体力の落ちた兄には身体に負担もあったと

思います。

でも高校時代は兄には刺激的でよき時代


だったのです。

それでも8日の夜は私の家族と一緒に名物の骨付き鳥を食べ、私の知り合いのバーに行き

お酒も少し飲みました。とても重病を抱えているとは思えません。病気が嘘であったなら、

どれだけ良かったかと思いましたが、今だからこそしっかり楽しもうと思いました。

抗がん剤は8月末にシスプラチンの許容回数を超えたということで、「オキサリプラチン」に

変更したそうです。薬が変わってどうかと聞くと、手に「痺れ」が出てきていると言いました。

さぞ気持ち悪い感覚だろうと思います。でもシスプラチンと違い、土日入院で点滴できるから、

職場に迷惑かけないで済むとも言っていました。
がん患者さんのQOLはこんなことも大切

なのです。入院点滴のたび周りに迷惑をかけると気を遣ったり、仕事をある程度すすめてから

と、体力を必要以上に使って仕事を一段落させてから入院点滴をしているのでしょう。

せっかく来たのに雨で残念だったね。でもきっとまた天気のいい時来てね。」

そう言って別れました。この帰郷に降った雨はまるで涙雨のようでした。

シスプラチンからオキサリプラチンへ抗がん剤を変えて3か月。また薬の効果を判断するため

検査をしたとメールが来ました。内容は11月末に検査結果が出たそうで、腹膜にがんが広がって

いることをCTで確認したとのことでした。12月初めに内視鏡でまた検査をするそうです。

内視鏡検査の1週間後から、薬効の違う

抗がん剤を使う予定だと、淡々とつづられ

ていました。余計なことは書かず事実のみ

でした。

シスプラチンの効果が良かっただけに、

残念ですが次の選択薬に期待するしかあり

ません。どうか効いてくれますように

内視鏡の結果でも胃にがんの増大が確認されたようでした。

3回目の薬はサイラムザとパクリタキセルを組み合わせて投与することになりました。そして、

また3か月後に効果の検査をすると。


シスプラチンのようなプラチナ系の薬剤はもう効かないので、次に合う薬を探すのですが、

その間にもがんは進行していきます。これからどうなっていくのか、先の見えない治療に

心の中に重い塊ができました。

でもこの状況を受け入れながら治療を受ける兄は、肉体的にも精神的にもつらいでしょう。

仕事や生活は変わりないと言いますが、ベッドで涙を流す夜はなかったのでしょうか。

私は空き家のまま5年間売れない実家について、兄が生きているうちに成果を出したく思い、

一括査定にかけてみたり空き家バンクに登録できるか調べたり色々な手段を試み、そのたびに

兄にも相談していました。東京で遠いけれども、こうして頼ることも大切なコミュニケーションで

あり、兄として助けてやらなければという気持ちでいてくれるかも と思いました。

ずっと私が固定資産税を支払っていることも気にしていたので、私にまかせきりにせず、自分も

かかわっているという状態にしたかったのです。兄もなにくれとなく返事をくれました。

結局、家は売れませんでしたが、 兄に自分がいなければと思ってほしかったのです。

こうして、平成29年8月にがんが発見されてから1年と5か月後、平成30年は暮れていきました。

お正月、年賀状は来ているけれど近況も知りたくてこちらから電話をしてみました。

相変わらず淡々としていますが、マスクが手放せなくなっているとのこと、たぶん少しの風邪の

ウィルス程度でも身体にはよくないのでしょう。「変わりなしで大丈夫だから」と言いますが、

なんだか声に力がないように感じました。元気でいるように、また何でも連絡してと言い電話を

切りました。また3か月後の検査結果がでたら、連絡がくるんだろうな・・・、もっと話がした

かったのに・・・疲れているんだろうか・・・と少々物足りなく思いました。

そして次の元号「令和」が発表されました。

その3日前、やたら兄を思い出し気にかかるので、体調や検査はしたのかメールしてみました。

すると夕方に返信がありました。

こちらは4/11からオプジーボの投与が決まりました。4/9から1週間の入院です。投薬前検査

と、投薬後の経過観察です。副作用の強さと多種性の説明を受けました。退院後にメールしま

す。】
と書いてあります。また抗がん剤の効果がなかったことに嫌な予感がしましたが、

平静を装い「そう、オプジーボに変わるんですね。身体はつらくないですか。くれぐれも無理

しないようにね。何か変わったことがあったら連絡ください。私もまたメールします。」

すると【痺れは相変わらずで、ずっと続いています。今の薬で実はかなり脱毛しています。やめれ

ばまた3~4か月で生えそろうようですが。では初回点滴後に連絡します。】
とまた返信がありま

した。珍しいことです。こちらからむやみにメールしないようにしていましたが、兄も副作用

自体のことを書いてくるのは初めてでした。


あとから聞いたのですが、私がメールをしたのは、3回目の薬の効果も無く副作用も強いため、

今後の治療方針を決める日だったそうです!不思議なことに兄弟でシンクロしたのです。

けれどもこの後入院してから私へのメールはすべてパートナーからのものとなってしまいました。

入院して3日目、4/11から、もうメールが打てる状態ではなくなったのです。


これが兄からの最後のメールとなってしまいました。

4月11日
オプジーボの投与も終わりもうすぐ昼食。

その昼食前、激しい嘔吐をしたとパートナー

から午後2時前に電話がありました。

気管内送管したそうです。意識が混濁して

おり、オプジーボの副作用なのかそれとも

他に原因があるのかわからないので、CT、

血液検査、胸部レントゲンを実施、個室に

移されたとのことでした。

連絡を受けてなぜか瞬間的に「明日病院へ行きます。」と答えました。考えるとその日のうち

行くのが普通なのにとあとで思いましたが、なぜか翌日行こうと思ってしまったのです。

翌日昼過ぎに病院につくと、安静を取り戻し寝ていました。廊下から見た久しぶりの姿は、髪の

毛はすべて抜けていて、見た瞬間わかるほど痩せていました。9月に会った時とは別人でした。

病室に入ったその時兄が目を覚まし、私を見るなり「空き家の固定資産税が6倍になるって

聞いたけど、うちは事情があるから市役所に掛け合えよ」と言いました。

えっ!?今この話?と思いましたが「う、うん、そうするから」としか返事ができません。

こんな時になんでそんな話が出るのか、頭の中にいつもその心配があったのだろうと思いました

が、なんだかおかしい、そう感じました。

起き上がったのでそのまま元の大部屋に帰らされ、落ち着いたころに話すと嘔吐したことは

覚えていました。「何時に来たんだ?昼メシ食ったのか、食ってないから食べてこいよ。」

しんどそうにしていましたが、その言葉は普段と変わりはありません。

パートナーもいてまだ昼食をとっていないというので、二人でランチの時、夕方主治医の話が

あると聞き、その後夕食を一緒に食べながら今後のことを話しておくことにしました。

尋常ではない量の黒い液体を嘔吐したそうです。消化器のがんですから、胆管や肝臓に異常が

出たのかとも思いましたが、主治医の話はこうでした。

  • 嘔吐後の内視鏡検査で、胃の幽門(胃の下側にあり、十二指腸につながる部分、胃の出口)が塞がっていることを確認した。
  • 入院前から幽門部が極端に狭くなっていて、胃で消化した食べ物がわずかしか
    十二指腸へ流れず、そのまま胃に残留。毎日生産される消化液もたまり、胃の許容量を超えたため嘔吐したと考える。
  • 気管内に嘔吐物が入った可能性はあるが、誤嚥性肺炎は起こしていないと思われる。レントゲンにもわずかな誤嚥物は撮っているが誤嚥性肺炎の兆候はない。
  • 嘔吐のため頭部CTを撮ったところ、わずかに病変とみられる部分があり、髄膜癌種症の疑いがある。明日は土曜なので週明けに腰椎穿刺で髄液検査を実施する。
  • 髄膜癌種症の可能性があるので、オプジーボはいったん中止せざるを得ない。
    また脳炎だと仮定しても、オプジーボの副作用とは考えにくい。
  • 今後、頭部病変からの症状がみられる可能性があるので、症状に合わせて対処
    する。

主治医の言う通り、おそらく髄膜癌種症でしょう。そのうえ内視鏡の写真では、胃の出口に

がんが盛り上がるよう増大し塞がっています。頭部は放射線治療という手もありますが、

いかんせんスキルス胃がんの方がもうどうしようもない状態です。もう口から固形物も流動食も

食べられません。ポートを埋めて中心静脈注射のルートを確保する手もあると言われましたが、

それだけの栄養でいつまでもつでしょうか。

「治療に前向きで積極的な患者さんだけに残念です」と言いました。事実上の余命宣告です。

質問はあるかと問われ、「口からはもう飲み物もとれませんよね。氷のつぶくらいなら、口に

入れて舐めてもいいですか。」と聞きました。

「大丈夫ですよ。口の中も乾きますし少量ずつですから胃に溜まることもないでしょう」

「食事はしなくても、毎日消化液が出ると思いますが、マーゲンチューブで抜いたほうがいいん

ですよね?また吐きますよね?」そう聞くと「胃液は毎日1.5~2リットルくらいできますから

抜かないと嘔吐されるでしょう。チューブを入れたままも苦しいし気持ちも悪いと思いますが。」

「そうですね。でも、やっぱり消化液は抜かないといけませんよね。」「はい」

寝ている間にチューブを抜いてしまうそうなので、ついこんな話になってしまいました。

パートナーが「もしもの時、妹さんが来るまでもたせてもらえますか」と言いました。

主治医は「延命ということでしょうか。一度そうなると、自然に心臓が止まるまで人工呼吸

器を使用することになりますが・・・希望しますか?それとも救命処置ということですか?」

私は「それはもちろん来るまでもってくれるのが一番ですが・・・、救命処置となったら、

馬乗りになって心臓マッサージするようなことも・・・」と聞きました。

「はい、あります。お兄さんの場合おそらく骨も弱っていると思います」

「骨折するということですね」「はい」

「それはもうしなくてもかまいません。延命治療もちょっと・・・」と口ごもりました。

パートナーは「万が一のことがあって間に合わなくても、妹さんが来るまで病院においてもらえ

ますか」と聞きました。先生は「できます」と言いましたが、それは病室にではなく霊安室の

ことを言ったのだと思います。どうもこの辺りの擦り合わせがあとで必要なようです。

私は「先生、ドクターはもう今日か明日という時の状態がわかると思うのですが、連絡いた

だいたらすぐに来ます。間に合わなければ仕方ありませんが、出来るだけ息があるうちに到着

できるタイミングには連絡をもらえるでしょうか。」そう言いました。

「わかりました。私たちも可能な限り間に合うようにお兄さんをしっかりみていきます。」

そして「延命はしないということでいいでしょうか。今ここで決めなくてもかまいません。後日

『治療行為に関する同意書』を書いていただきますが、気持ちが変われば書き直すこともでき

ますので、少し時間をとって考えていただいてかまいません」と言いました。

主治医との話を終え、病室の兄の所へ戻りました。

「気分はどう?疲れたでしょ。少しは元気出た?」

「ああ・・。けど、もう胃が塞がってしまったんだろ。先生に聞いた。」投げやりな言葉。

「私も今説明してもらった。ポートとか埋めないの?」

「いや、もういい。しない。もう食べられないからな。同じことだ。」短く兄は返事しました。

オプジーボに希望を託して入院した矢先の出来事。希望を失った瞬間だったのでしょう。

もうかける言葉も見つかりません。

「えらい目にあったね。私たちもう帰るけど今日はしっかり眠って。また明日顔出すから。」

この日はそう言って、パートナーと病院をあとにしました。

二人で今後のことを話さなければならなくなりました。

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