【超速】クラウドサーバーの評判 ConoHa WING編  UP!

スキルス胃がんと闘った兄のこと:闘病記vol.3

pray

病院近くにホテルをとったので、近所で食事をとりながら話もできそうな店を
探しました。

にぎやかすぎても、隣と席が近すぎてもダメですし、意外と見つからないものです。

なんとか妥協できる店で食事をとり、ポツリポツリと今回の状況を話しているうちに、
本題になり始めました。

亡くなったときどうするか


病院にいる間は病院と話ができ、頼み事もできますが、もし亡くなれば自分たちで何かと
手続きも手配もしなければなりません。


パートナーは私が臨終に間に合うかどうかを気にかけていたようですが、切り出しました。


今からしないといけないのは、病院へのお迎えと葬儀をどうするか、葬儀社の当てを
つけておくこと、それから東京は地方と違って火葬場の順番待ちになるから、その間
預かってもらうことも葬儀社と話しておいてほしいです。

私は間に合わないかもしれないし、そうなったらいつまでも病室においてもらえません。
処置をして霊安室で対面になると思います。」


私が住むような地方は亡くなってから葬儀が終わるまで、友引がかかる以外は不要に
日数はかかりません。


しかし東京は1週間近く待たないと火葬場に送れないこともあります。


「でもお葬式なんて悲しいことなのに出したくない」と言い出され、
「お葬式をしないということは、預かってもらったところから次に対面するのは
火葬場で、その時手を合わせたらすぐ火葬されてしまうんですよ。
最後のお別れの時なので、きちんとお葬式はしないとダメです。」


説明すると「そうなんですか!?」と驚いていました。


「いいですか、お葬式の日は火葬場に送ってお骨にする日なんです。それまで、
兄の遺体を保管してもらわないといけないんです。冷蔵室でお葬式の日まで預かって
もらうことも含め、家に近い葬儀社を決めておいてください。」

パートナーは自分で葬儀の手配をしたことは無く、順番や何をするかわからないのです。

まだこの年齢なら知らなくて普通なことですが、私は兄が亡くなれば葬儀手配は
4回目になります。

「わかりました。探します。どういう話をすればいいか・・・。」

「あちらの方が心得ていますから、
入院中だけど、ドクターから今のうちに

準備をする必要があると言われたので、
と言えば大丈夫です。

自宅の近くに良さそうな葬儀社は
ありますか?」

「調べていいところがあるようなら、
そこに問い合わせてみます。」

「葬儀っていっても、家族葬になりますね。うちは来るのは私と家族の3人だけです。」

「私も兄弟の家族と親だけなので、両方あわせても10人以内ですね。」

「そうしたら、そのことも葬儀社さんに言って家族葬の前提で話しておいてください。」

「死亡届は葬儀社さんに頼めるんでしたか?」「うん、区役所に出してくれますよ。
兄の本籍を書かないといけないけど、わかりますか?」

「実家のお父さんが亡くなったときとった戸籍がおいてあったと思います。」

だんだん、話が順序だってきて具体的になりました。

  • 葬儀社を決めておくこと
  • 遺体を保管する手配ができるか葬儀社に確認しておくこと
  • 私が間に合わない場合は死後の処置をしてもらい霊安室に安置してもらうこと
  • 遺影に使う写真を決めておくこと
  • 葬儀代の算段をしておくこと
  • お墓に関しては籍を入れていないため、私が分骨して持ち帰り永代供養の
    手続きをする
  • 生命保険の証書を探しておくことを依頼

こんな話をするのは早いと思われるかもしれませんが、想像以上に早く急変することも
あります。

また、私が兄が生きているうちに上京してこういう話をする機会があるかどうかも
わかりません。

今、最低限決めておかないと困ることはパートナーに伝えて動いてもらうことにしました。

パートナーは一つずつメモしていました。

あとどのくらいもつだろう、主治医の話をしたりしてその日はパートナーと別れました。

翌日、午前中に病院にいくと兄の表情はやはり心なしか元気がなく、不機嫌そうでした。

これまでと違って何も差し入れできず、今度こそ何を話せばいいか頭の中は言葉を
探し回っていました。


「おはよう。昨夜は眠れた?チューブ入れたままやね。」
「寝るのはちゃんと眠れてるよ。けど、疲れたな・・・。」「お腹すく?」
「今はそれほどでもないけどな・・・。」


「やっぱりポートは埋めないの?」「しない。」短く兄は言いましたが、怯えるような表情
でした。ポートを埋め込めばもう終わりだと誤解しているのでしょうか。


点滴で高カロリーの栄養を入れなければ、体力はあっという間に落ちます。


「もう食べられないからな。」胃が塞がったことがかなりショックだったのでしょう。
先が見えなくなった不安と、覚悟を決めなければいけないかもと、色々な思いが逡巡して
いるに違いありません。


「しんどいだろうけど、胃液は抜いてもらってね。」「ああ」
「入院少し長引くみたいだけど、しっかり治療して、退院できるようにね。」
「うん、わかってる。」何を言っても今は励みにならないと思いました。


「もう少しそばにいていいかな。また来るにも遠いしね。話すとしんどい
だろうから、寝てていいよ。帰る時間になったら行くから。」「わかった。」


こうして兄の顔を目に焼き付けておこうと、帰る時間までそばにいました。

病室を出てパートナーに、手間をかけるけれどこれからは様子をメールしてもらうことと、
兄の面倒を頼み帰路につきました。

13日に帰ってからすぐの4月15日。はや思いがけないメールが来ました。

何を問いかけても「はい」としか言わなくなり、うまく言葉を発することが出来ない。

脳の状態を検査するので、MRIと腰椎穿刺で髄液検査を即時行うとのこと。微熱はある

ものの血圧は正常、容態そのものは安定はしているというものでした。

あの状態で腰椎穿刺をすることがかわいそうでしたが、原因をはっきりさせなければ
いけません。

パートナーは葬儀社の方を当たり始めているようでした。


4月16日
パートナーから電話がきました。主治医から妹さんにも話しておくようにと言われた
そうです。

頭部MRIには脳に引っ付くように白い影、他にも点々と同じ影が映っていたそうです。

髄液の細胞診はもう少し時間がかかるものの、やはり髄膜癌種症で間違いないだろう
とのことです。

こうなると、食べることもできないのを考えると、長くもつとは思えません。今年は

最長10連休、観光客も人の移動も多くなります。せめて連休明けまで頑張ってほしいと

思いました。パートナーは兄の部屋で今後必要になるものを探し始めたとのことです。

4月17日
昨日より落ち着いて、意識が少し
はっきりする時間が増えたようで、

しゃべりにくい様子はあるものの、
ゆっくりと言葉は出るようです。

私は兄に見せるようにと、メールで、

「お兄ちゃん、わかりますか。入院代
など支払いがあるので、キャッシュ
カードの暗証番号を教えてあげて
ください。」と、

なかなかえげつないメールをしました。こういうことは身内でないと言えないと
思ったからです。

抵抗があったようですが、教えてくれたそうでした。籍を入れずに生活していたので、
自分のお金はそれぞれで管理だったようで、これまでの医療費など兄が自分で払って
いましたがこの状態ではそうもいきません。

また、パートナーに立替はお願いできても、支払いをしてくれとは言えないのです。

4月18日
また熱が上がり、38度。昼間看護師さんには何とか答えていたようですが、パートナーが
仕事を終え会いにいくと、まったく会話にならないようです。


昨日のメールはタイミング的に奇跡でした。頭の中にある言葉が羅列して出てくるみたいで、
文章にならない話をしたとか・・。

もうひと時たりとも携帯が手放せなくなりました。

4月20日
熱はいったんさがっていたものの、今日また発熱、40度でした。頻脈で苦しがっていた
ようですが薬で夜は落ち着いたとか。ほとんど寝ているとのことでした。


このころからパートナーは保険証書や、兄の戸籍謄本、通帳類、高額療養費関係など、
兄がもしもの時、必要な関係書類をぼちぼちと見つけていきました。

4月21日
やっと熱が下がり、と言っても37度5分と軽熱。1日中、うつらうつらしているそうです。

4月22日
また熱が上がり、下痢気味だそうです。髄膜の細胞診の結果が出たそうですが、
いうまでもなく髄膜癌種症。


癌性髄膜炎ともいいます。髄膜炎というように炎症を起こして熱が下がりきらない
のかもしれません。癌が燃えているのでしょうか。主治医から、話があったそうです。

  • 髄膜癌種症で転移性腺がんと診断。胃がんからはまれなケースであること
  • 髄膜への放射線療法、化学療法もあるが、胃がんの根本的治療にならないことに
    加え、効果に確証も少ないため、今勧められる治療がない。
  • 発熱を繰り返すが、感染症にはかかっておらず癌による炎症作用と思われる。
  • 仮にがんセンターに変わっても、この病院で行っている治療と変わりないこと。
  • 初めの急変(4月11日)から起算し、4週間~12週間の見込みであること。
  • 以上の理由で緩和病棟のある病院へ転院を進めるとのこと。
  • 転院についてはソーシャルワーカーを紹介するのでどういう転院先が良いか、
    希望を話してほしい。


以上でした。4月11日起算で早ければ4週間、ゴールデンウイーク明けくらい・・・。

転院を考えると連休明けまでには、少しでも状態が回復してくれればいいのですが。

スキルス胃がんだけでもまれなのに、転移したがんもまれながんだなんて・・・。

しかし、ふと目を開けた時「あまりいい状態じゃないな・・」と呟いたそうです。

連休が終わったら絶対見舞いに行こうと思っていますが・・・。

もう以前のように前向きで治療に積極的という気力も湧かないのかと悲しく、兄自身、

何か悟ったのではと思うと切なくてなりませんでした。

4月23日
熱は37度6分。この程度でも毎日熱が続くと身体にこたえると思います。主治医が兄に

脳炎や肺炎ではなかったことと、もうしばらく入院が長引くと説明したそうですが、

パートナーが先生が何と言ったか聞くと脳圧の検査をすると答えたそうです・・・。

4月24日
息子が東京出張だったので、お見舞いに行きました。不思議とわかったようで、

スーツ姿の息子を見て「いかにもサラリーマンっぽいな」というようなことを話した

そうです。けれども、息子の話では顔がかなりむくんでいて、目をあけるのも辛そうだった

ということです。頭部のがんなので顔がむくんでいるのでしょうが、むくむのはあまり

良くない症状だと思います。

パートナーがソーシャルワーカーさんから手続きの説明や、転院先の病院についての希望を

話したそうです。私からはパートナーの日常生活に負担がかからない範囲の場所であれば

いいとだけ、伝えておきました。

転院となったら、本人はわかるでしょうか。

救急車で主治医が付き添ってくれるというものの、熱も上がったり下がったり、

もう歩行もできない状態なのです。これで転院できるのでしょうか。

いわんや4週間から12週間と言われ、転院する価値があるでしょうか。

大学病院の機能的立場や急性期に対する治療中心ということはわかりますが。

4月26日
職場の方が千羽鶴と励ましのメッセージを

書いた色紙を持ってきてくださいました。

今回もその時だけ意識はあったようです。

朦朧としていても、まだ自分を保っている

ようです。

主治医が転院もあるので、病状説明も含めて

転移の話をすると言ったそうなので、

パートナーと相談しました。

今この状態で転移の話は本人が理解できるかどうかわかりませんが、もしわかったら一気に

気力を失くしてしまいそうで、気が進みません。せめて転院先が決まってからと思い、

先延ばしにしてもらうことにしました。

もうすぐゴールデンウイークになるので、転院自体もきっとそれ以降になるはずです。

寝返りとかできているのか、頭痛は訴えていないかとか聞いてみたものの返事がありません。

兄の色々な書類を探していることの報告ばかりで、詳しい病状の方がわからない、心配です。

4月28日
再び軽熱。昨夜から痰がからむのか、いびきが増えるようになったと連絡がありました。

また、たまに目を開けた時、眼球が上にあがっていて話しかけても返事がないと。

これはきっと頭部のがんによるけいれんだと思いました。大丈夫でしょうか。いよいよ連休に

入ってしまいました。今日までにもう一度上京すればよかったと、後悔しきりです。

1日過ぎるのが重苦しく思えます。

4月29日
いびきはやまず、けいれんも時々でているそうです。大きなけいれんでなければ、今後薬で

抑えるそうです。また一段階状態が下がってしまったらしいですが、バイタルなどは安定

しているそうです。断言はできないが、ゴールデンウイークは越せるかもと主治医がいった

ようです。

それでも心配です。12週間など到底もたない、そう思えてなりません。

4月30日
13時すぎ、「昨日よりいびきが小さくなり、熱は下がっていますが、鼻のチューブから

茶色い胃液が出るのが増えたようで、吸引しています。ずっと寝ているので、もうしばらく

したら帰宅します。」

そう書いたメールを読み、安心したので、ちょっと遅い昼食でうどんでも食べようと

14時ごろ出かけました。少し遠出しておいしいお店に行こうかと思っていたところへふいに

携帯の電話がなりました。「酸素濃度が急に下がって先生が来てくださいと言っています。」

パートナーの震える声が聞こえます。あわてて帰宅しわずか2席空いていた夕方の飛行機の

チケットをとり、荷物をまとめると空港へ送ってもらいました。

「着くまで頑張って、逝かないで」ずっとそう願いながらも、雨のせいで30分遅延が

1時間遅延に。

飛行機もいつになく揺れが激しく、ずっと緊張していました。病院に到着したのは

午後9時過ぎ。途中パートナーとメールでまだ大丈夫かどうか、今晩は病院が付き添い用の

ベッドを用意してくれるなど連絡をとりながら、空港からの電車を乗り継ぎました。

いつもより病院までの時間が長く長く感じられました。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!来たよ!わかる?聞こえる!?」何回か呼びかけると、目に光が

戻り身体をこきざみに震わせて絞り出すように「うーっ!」とも「おぉーっ!」ともつかない

声を上げて返事をしてくれたのです。「わかった、わかったんやね!ありがとう!ありがとう!

しっかりして、お兄ちゃん!」

それからはまた大きないびきをかいて、うつらうつらし始めました。

こんなに大きないびきをかいていて、驚きました。いびきというには異様に音が大きいのです。

顔はむくみ、右目はわずかに開いていますが左は完全に塞がっています。

身体がぐっしょりと濡れていました。濡れて、というより水たまりに浸かっていると言った

方がいいぐらいでした。

「これはどうしたの?着替えは・・・?」と聞くと身体を動かすと血中酸素濃度が下がるので、

安易に動かせなかったそうです。

看護師さんが「今晩は妹さんがいるから、いったん家で休んできては」とパートナーを

促すので、私も同様に勧め、帰宅することになりました。

パートナーが帰ってからベッドサイドに

座り手を握り顔をじっと見つめました。

一見落ち着いているように見えますが

大きく口が開いたままで酸素マスクを

着けています。

「・・・これは、もしかして下顎呼吸?」

けれどもあまり顎は動いていません。

「お兄ちゃん」呼びかけながら肩をさすってみたり足をさすってみたり。手の指は冷たく

グローブのようにむくみ土気色でした。

ますます不安が増したころ、いびきの音が小さくなってきました。

パルスオキシメーターを見ると血中酸素飽和度が90%・・・すると88%、84%、76%と

下がり始め、看護師さんたちが一斉に入ってきました。

兄を取り囲み血圧を測ったり、心臓に聴診器をあてています。「先生に連絡します。」

パートナーにも連絡するよう言われました。酸素マスクに送る酸素の量も増やしました。

そのうち看護師さんが一人残り「耳は聞こえているから、声をかけてあげて。安心するから」

と私に言います。何が起こっているかわかるけれど、でもとても信じられません。

「お兄ちゃん、しっかり!まだ逝かないで!」耳元で言い続けると目を見開き「ハァッ!」と

大きく息を吸いました。「そう、そう!!頑張って、帰ってきて!息をして!」するともう一度

大きく「ハァーッ!」と息を吸いました。その直後、フッと目の光がなくなり、

苦し気な表情が緩み ました。


「え・・・」まさか、今逝ったんでは・・・。生と死の境を直感しました。

それでもまだ「パートナーが帰ってくるから逝かないで。」そう言い続けましたが、

兄の魂はもうこの身体にありません。ほんの15分くらいの間の出来事です。

帰してしまったパートナーは5分、間に合いませんでした。

平成31年4月30日 午後11時24分。闘病に別れをし、兄は旅立ちました。

わあわあ泣いてしまうかと思いましたが、なぜか泣けません。茫然自失、無言のまま兄の

荷物を片づけ終えるころ、兄の治療にあたっていたチームの先生方がお悔やみと、

死亡の確認に訪れました。そのまま死後処置になり、その間に死亡診断書に病院の印鑑を

もらいに行ったり付き添い用に借りたベッド1式を返しに行きました。

霊安室に安置された兄の顔は不思議なことにむくみも消え、いつもの顔に戻っています。

横たわる兄はもうピクリとも動きません。

顔や肩をなでたりしていると静かに涙が伝い落ちてきます。

それでもまだ信じられませんでした。

午前3時、もう令和です。葬儀社が迎えに来た車に乗せられ、安置所に兄は向かいます。

バサバサと降りしきる雨の中、去っていく車のテールランプをただ見つめました。

今度も涙雨でした。兄は私を待っていてくれたのだ、そう思いたいです。

1年9か月の闘病、お疲れさまでした。

令和元年5月1日
朝のワイドショーは即位後朝見の儀の報道をしていましたが、何も目に映りませんでした。

寝不足のまま、午前中に葬儀社へ向かい葬儀の打ち合わせをしました。

やはり火葬場はいっぱいで、私の主人と子供の都合を考えて葬儀は5月8日、火葬場の

予約もできました。葬儀社もすでに他の方の葬儀が入っていたので、1週間先の葬儀で

大丈夫でした。

兄の遺体はこの葬儀社でも安置できますが、いっぱいで数日後に空く予定ということで、

それまでは他所の安置所で預かってもらいます。家族葬で通夜なし、エンバーミングを

してもらう、そのほかに骨壺の選択や供花、配車、棺の中にいれていいもの、いけないもの

などこまごまと話を詰め、見積もりをしてもらい打ち合わせは終わりました。

その後パートナーとこれからしなければならないことを話し、翌5月2日、私は帰路に

つきました。

例えようもないほどの喪失感と共に、これもまた運命ではなかったかと心の中で反芻し

兄の人生と病気との闘いに思いを馳せながら。

拙い文章をここまでお読みくださった方 ありがとうございました。
皆様が健康で、よき人生を送られますようお祈りします。

タイトルとURLをコピーしました